ワインの王様・ボルドー(6)ボルドーワインの歴史(前編)
もともと、フランスの気候はワインの原材料であるブドウの生育には寒冷で向いておらず、ワインが作られているのも地中海沿岸地方だけという状況だったそうです。
紀元前一世紀半ば、古代ローマの英雄・カエサルが今のフランス・ベルギー全体とドイツ・オランダのライン川以西に相当する「ガリア」全域を征服します。
そのしばらく後から、約二百年続いた「ローマの平和」期に、寒冷地に適したブドウの品種改良が行なわれ、それでフランスでもワインが作られるようになったそうです。
ちなみに、この品種改良で形成された「ワイン用ブドウの栽培地」の北限は、今でも基本的に変わっていないそうです。
こうした努力の結果、ボルドー市から数十キロ離れたサンテミリオンでは古代ローマ帝国時代からワインが作られており、中世にはスペインにあるキリスト教の聖地に巡礼する人々がこの近辺に立ち寄った際にワインを飲んで美味しさを広めたことから、その時期には旅人の間では有名だったようです。
何故巡礼者にワインが広まったかというと、修道院や教会には旅行者、特に巡礼者を保護する義務があり(中世にはホテル業は未発達でした)、食事の際にワインをふるまうことも多かったからです。
赤ワインは聖書でキリストの血とされ、教会の儀式に必要だという名目もあったようですが…。
ボルドー市自体は古代ケルト時代(カエサルのガリア征服以前)から「ブルディガラ」という都市名で知られていて、南方のグラーヴ地区などでは恐らくサンテミリオンと同時期からワインが作られていました。
近世になってワインの銘醸地になっていくメドック地区は、実はワイン生産地としては新しい方で、もともと海に近い沼地だった(メドック地区はガロンヌ川とドルドーニュ川の合流した後のジロンド川流域にあります)ことから、ブドウが植えられるようになったのもずっと後で、埋め立てが進んだ16世紀以降に名を知られるようになったそうです。
とは言え、ボルドー市は古くからの貿易港であり、ワインも重要な貿易のための商品でした。
ガロンヌ川の上流域から運ばれてくるワインも独占的に扱っていて、必ずしも地元産のワインというわけではなかったようですが。
この地方は中世の数百年間、イギリス領だった時代があり、英仏百年戦争を経てフランス領になった後も、その縁からイギリスとの関係が深かったようです。
ワインの輸出相手も、寒冷でブドウが育たずワインが製造できないイギリスや北欧諸国、ドイツ東部が主だったそうです。
特にイギリスでは17世紀からシャトー・オー・ブリオンが有名になり、18世紀前半のイギリスの宰相ウォルポールはシャトー・ラフィットがお気に入りで、三カ月に一樽は開けていたそうです。
一方、フランス国内ではボルドーが首都のパリから遠かったこと、方言がある(フランス南部で一般的だったオック語の方言であるガスコーニュ語)ことなどから田舎というイメージがあり、あまり飲まれていませんでした。
そのため、ボルドーワインは国外での知名度の方がフランス国内、特に宮廷における知名度より高かった時期もあるほどです。
この状態は、実に18世紀半ばまで続きました。
(後編へ続く)