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それでも生きていく

それでも生きていく
 
 
今日は、素直な気持ちでお話させていただこうと思います。
 
私は高校卒業してから就職しました。当時移動販売車の設計・製造販売をする製造業です。
移動販売車とは、肉屋さん・魚屋さん・個人商店等の個人業者がステンレス製のコンテナに商品を積んで、お客さんの所に直接行って販売するために造られたものです。
その移動販売車ですが、売上が伸びず毎月赤字でした。赤字を埋めるために、辛い、きついと思いながら残業・徹夜をしていました。その時の私にはそれしか道がなかったからです。
 
そういう生活を送っているうちに、自分では全く気付かなかったのですが、何故か体の具合が悪くなり仕事を休んだりすることが多くなりました。
 
いろんな病院に行きましたが、どこも悪くないという医師の診断でした。
周りからは怠け者とレッテルを貼られ、とうとう誰も私に口をきいてくれなくなりました。
 
私はだれに相談したらいいのか、誰を信じたらいいのか本当にわからなくなりついには自傷行為におよび、気づいた時には病院のベッドの上でした。
 
以前バイクで転倒した時も反対車線にまで体が飛ばされたのですが、対向車がいたら、間違いなく死んでいたのに・・・今回もそう、死なないのです。
                         
この時から薄々何者かに生かされているのではないかと、思い始めました。
 
それでも何とか仕事をしているうちに、数年がたち思いきって私は家を購入しました。なんでこうもついていないのでしょうか・・・バブルがはじけて、デフレーションという不況が始まりました。それは、自分が想像をもしていなかった大不況で、その波に会社ものみ込まれてしまい会社は、休業することになり、私は退職せざるえなくなり、その結果、家を購入してたった10年で売らなければならなくなりました。
 
悪いことは続くとか不幸は連鎖するという言葉をよく聞きますが、結果的にうちもそうなりました。
私には妹がいました。過去形にするのはとても心苦しいのですが、若くして死んだのです。
よくテレビなどでいろいろ死亡事故のニュースを観ますが、自分の家族がまさかそうなるとは思いませんでした。
お付き合いをしている男性とのドライブ中での交通事故、21歳の若さでした。
目の前に起こってしまった現実を受け入れようともがき、それから何年も悩みましたが、妹がいなくなった現実は軽く受け止められるはずはありません。                                                      
私はまともな一般の生活が送れなくなっていて、車で交通事故まで起こしてしまい入院しました。死んでいるのが当然という大事故で手術は6回もしました。
 
その後遺症で身体障がい者となったのです。
 
その時誰かに生かされてる!何か大きな力を持っている者の意思が働いているということを悟ったのです。
 
そして更なる試練が待っていました。父が癌で入院してしまいました。父の癌は大腸癌でした。手術も無事終わり、一見完治したかのように思われましたが、5年後また大腸にしかも大きな癌が見つかりました。「定期検診をしていたにも関わらずなんで判らなかったのか?」と、医者に問いただしましたが、おそらく粘膜の中に癌が潜んでいたんだろうとの医者の説明でした。
進行癌とは恐ろしいと思いました。そして入院しました。それから手術が始まりました。しかし結果は、癌が小腸の血管部分にまで進行しており、ほぼ開いて閉じるという手術になりました。それから抗癌剤の辛い治療になりました。余りにも抗癌剤治療がきつかったので、新薬で、がん細胞に栄養があまり来ない薬と少し抗がん剤とを混ぜて試すことになり、父も喜んでいました。
 
そんな時今度は、母方の祖母が入院してしまいました。私たち母子は、毎日毎日病院に通いお昼を祖母に食べさせてやりました。寝たきりにならないように僕もちょっと厳しく、「立って!膝まげて!」などとリハビリをさせるようにしました。祖母からは、「おまえ私が良くなったらやかましく怒るんだから」っていやみを言われましたけど、「おうおう良くなったらどんどん怒ってくれ!たのもしいね」って笑いながら私は祖母に言いました。しかし、だんだん祖母は口数が減り、手足も動かなくなりもう車椅子さえも乗れなくなりました。その後の検査で、脳梗塞と膀胱癌が見つかり、もう手術はその老体で無理と言われ、この時点で諦めましが、それでも母は毎日毎日看病を続けました。やがて来る日が来ました。
大往生94歳でした。
 
このころから母は少し気が抜けたようになってきました。今度は父の看病になりました。父はその時には3か月も点滴だけで生きていました。私がご飯を食べるように薦(すす)めると、「もう食欲がない」と小声でいいました。僕は「食べなきゃ死ぬぞ」って言ったら、「死にとうなか」って言いました。そして医者からあと2か月と言われ延命治療をするかしないか担当医と話し合いましたが、私が生きているのと死んでないのとは違うからもう延命治療はしない方向に決めました。癌は既に体全体に転移しており、そして2か月いかないうちだったでしょうか?医師の懸命な治療も虚しく、とうとう亡くなってしまいました。母のその時の言葉は、「自分だけ楽になってから」でした。76歳でした。 
          
私はもう「どうにでもなっていいや」と開き直ってしまいました。
 
とにかく仕事を何とかしなければと思い求職活動をしたのですが、この体での就職は年齢的にもなく、アルバイト等を何とかしていました。経済的にも苦しくなったので、生活保護を余儀なく受けるようになり、母一人子一人の貧しい生活がはじまりました。
仕事もなく、保護のお金だけで、何とか生計を立てていましたが、ある時入院時代知り合った人が、営業で雇うから、福岡市東区に引っ越してこないかって、誘われました。その話に乗ったのがまた失敗でした。まともな仕事ではなかったです。
 
そのような中で、2年前の春、インターネットのチャットサイトに、「聖書が好きな人」というPRを出しているチャットの部屋があるのを見つけました。そこで出会った人は私に聖書を読むことを薦(すす)めてくれました。
 
私は聖書を最初から最後まで読もうと決心しましたが、自分一人で読む自信がありませんでした。そこで、パソコンのスカイプという無料電話で、その方と一緒に創世記を1日1〜2章、2節ずつ交代で一緒に音読するようになりました。あと1章で創世記を読み終わるというときに、その方が体調を崩し、申し訳ないけれど当分休ませてほしいと言われました。
去年の春、同じチャットサイトに、またその方が聖書の部屋を開いていたのを見つけ、私はそこに入りチャットを再びやり始めました。
 
その頃、母が倒れてしまいました。そして入院生活が始まりました。私の母は前から患っていた膠原病で、先が短いと医者から告げられ、病院からは、母の様態が悪くなる度に呼び出され、私は不安と苦しみの中にありました。そのことをその方に話すと、その方は涙を流しながら私と母のために祈ってくれました。母はもう自分で呼吸することが出来なくなっていて、喉を切開しパイプを指しこんでいました。とても苦しそうでした。心臓も止まり心臓マッサージをしました。強力な力で心臓をマッサージするので、肋骨も折れてしまいました。もうこれ以上苦しませたくないので、医師に延命治療はもうやめてくれと申し出ました。三日後、残念ながら母は息を引き取りました。78歳でした。
 
私はとうとう一人ぼっちになってしまったのです。
 
私の生活は、経済的にどんどん苦しくなっていく一方でした。
 
そんな時その方が仕事を紹介してくださいました。それが今の会社です。
 
会社でいろんな仲間が出来ました。そして今では、仲間同士で食事なんか行きたいなと思うほどみんな優しくいい人ばかりです。そしてなにより会社で仕事できるのが楽しいと思えるようになりました。
 
思えば、会社に勤め始めて、我が人生がどんどん変わってきているのを実感しています。一人ぼっちになってしまって、半分もう人生どうなってもいいと落ち込んでいた自分が、今では少なからずとも希望に満ちています。生きててよかった。
 
この先もどんな困難が待っているかわかりません。それでも私は生きていく。
 
 
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