1964年、東京パラリンピックにて日本選手団団長を務めた中村裕博士は海外と日本の選手との経済格差・生活格差に愕然とし、障がいのある人は仕事を持ち自立することが最も必要であるという信念に至り、障がい者には「保護より機会を!」、「世に身心(しんしん)障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」という理念の下、1965年別府大分亀川の地で『太陽の家』を創設しました。
ただ、これには社会性(共助)と経済性(事業)の両輪が必要であり大変苦労されました。
そこで博士は全国200社を超える企業に直接訪問し、お仕事による共存提案の話を持ちかけたといいます。
行く先々の訪問先全てに断られていくなか、唯一、一社だけ名乗りを上げてくれた企業がありました。
それがオムロン創業者であるあの立石一真さんです。
これが日本で最初に障がい者が定年まで働ける企業になる会社、『オムロン太陽』の誕生の物語です。(超簡略しましたが)
中村博士と立石一真さんの共存モデル事業の話を聞きつけて次に名乗り出たのがソニーの井深さんです。
この取り組みに共感した井深さんは『ソニー太陽』を誕生させました。
そして本田宗一郎さんもホンダもやるべきと決意され『ホンダ太陽』を、その後も『三菱商事太陽』、『デンソー太陽』、『富士通FSAS太陽』と続きます。
まだ法定雇用率も障害者総合支援法もなかった50年前の話です。
あの頃の日本の経営者はカッコいい。
当時から一流の経営者は社会課題を事業で解決する取り組みをされているのです。
アメリカ式経済のように会社は株主や投資家のもの、利益さえ出せば環境を破壊しても格差を生んでもいいなんてことはやってなかった。
障害者雇用もそうだ。
法律があるから障がい者を雇用するという動機だと、雇用がゴール、採用がゴールにしかならなくなってしまいお互いが不幸でしかないようになってしまっている。
もちろんちゃんと活躍人材として雇用している会社もあると思うので全てではないがやはり就労継続支援事業を10年もやっていると大半がそうであるのがわかってしまう。
いま一度あの頃の立石さん、井深さん、本田さんといった熱い経営者に倣い本来の在り方でこの福岡を別府亀川のような聖地にしたい。
福岡の地域企業で50年前のオムロンさん的ポジションになってくれるべく企業が現れて来ています。
今後こういった企業様とこの取り組みでこの地域や未来を支える活躍人材発掘と育成を九州・福岡で挑戦すべく共同でプレスリリースしていきます。
そしてこの取り組みに共感する次のソニーさん、ホンダさんになる福岡の地域企業が今後名乗り出てくる様な共感資本社会の流れを我々は創っていきます。
近日発表をお待ちください。
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