日本の寝台列車(九州編)
JR九州では2013年10月に「ななつ星 in 九州」が走り出しました。豪華クルーズ型の寝台列車です。
最近の流れとして、寝台列車は一般の人の移動の手段というより、列車に乗ること自体を目的としたクルーズ型が流行っているように見て取れます。
ただし、こういった列車は運賃が高額のため、普通の人には手が出せないと(乗ることが出来ない)思います。
寝台列車はかつては一般の人が旅行に出かけたり、学校の修学旅行、新婚旅行、就職での上京、会社の出張の為に利用されてきました。
そして、日本全国に寝台列車が走っていました。北は北海道から南は九州まで走っていました。
現在は新幹線や飛行機に押されて、ほぼなくなってしまいました。
しかし、私が小さい頃(今から30数年前)は、たくさんの寝台特急や寝台急行が走っていました。ちなみに、「特急」というのは特別急行の略称です。
幼少時代は山口県下関市・周南市(旧徳山市)や福岡県宗像市に住んでいました。そこでたくさんの寝台列車を見てきました。
例を挙げていきますと、九州は西鹿児島(鹿児島市)から東京に向かう寝台特急「はやぶさ」宮崎・大分〜東京の「富士」、熊本・長崎〜東京の「みずほ」、長崎・佐世保〜東京の「さくら」、博多・下関〜東京の「あさかぜ」などがありました。
他には九州各地から大阪・京都へ向かう寝台列車として、「なは」、「あかつき」、「彗星」、「明星」などがありました。
また、電車式寝台列車として博多〜名古屋の「金星」がありました。以降紹介するのは電車式ではなく、客車式です。
そして、その中でも九州から東京に向かう寝台特急をメインに紹介したいと思います。
車体構成としては、先頭が電気機関車でそのあとに客車(寝台車)が繋がってました。
「はやぶさ」、「富士」、「あさかぜ」の車両(客車)は24系(24系25型)、「さくら」、「みずほ」は14系の客車を使用していました。
24系はブルーの車体にシルバーのライン(帯)が2本。14系は同じくブルーの車体に白のライン(帯)が2本引かれています。
24系と14系の違いは外見だけでなく、車体の構造にも違いがあります。24系の客車の最後尾(または先頭)に電源車がついていました。
これは、客車内の電気系統を管理するためのいわば発電機のようなものです。14系には電源車はついていませんでした。というのも、14系の場合、各車両に発電機のような装置がついていたのです。電源車は発電を行うので「ブーン」というにぶい音を出します。
また空きスペースに郵便物を運ぶこともしていました。
少年時代の私は寝台列車、通称「ブルートレイン」が大好きで、夜中に線路がある所まで行ってその走る姿をカメラに収めたり、駅に行って停車している寝台列車を見学によく行ったものです。
寝台列車の室内は通常、二段式ベッド(中には三段式もある)で、上段と下段のベッドに分かれています。下段の方は車体の揺れが少ないので、上段よりも寝台料金が高めに設定されていました。
他にも個室専用の車両があり、がありA寝台と呼ばれ、二段式ベッドの方はB寝台と呼ばれてました。
ちなみに、寝台列車に乗るためには、乗車券の他に寝台料金と特急料金(急行料金)が必要となります。
かつては博多から東京までを例にとってみると、乗車券が約15000円、寝台料金が5000円〜6000円で特急料金は3000円ぐらいだったと思われます。なので片道2万円3千円ぐらい必要でした。
現在は飛行機の早割を使うと福岡〜東京を1万円数千円で行けますので、けっして安くはなかったです。
目的地へ早く安く行くというのが一番いいかもしれません。しかし、目的地へ向かう途中も楽しめるのが寝台列車のいいところです。
私が小学6年生の時、一人で東京まで寝台列車で旅をしたことがありました。
小倉から「あさかぜ4号」に乗って、東京まで行ったのです。
夕方5時ごろ、博多発の寝台特急「あさかぜ」が赤い機関車(ED76形)を先頭に小倉駅に静かに滑り込んできました。
私はわくわくしながらこの光景を写真に収めました。そして、小倉駅を出発して翌朝東京に向かうことになったのです。
出発時、小倉駅のホームに寝台列車をカメラに収める鉄道ファンがたくさんいました。
たくさんのフラッシュがたかれる中、機関車が汽笛を鳴らして静かに出発しました。私はドキドキしながら車窓の風景を見つめていました。
すぐに門司駅に到着。そこで関門トンネルに入るので、これまで先頭を走っていた赤い機関車から海底トンネルを入るための専用機関車、ステンレスで覆われているシルバー色(銀色)の機関車(EF81形300)に交代します。
何故交代するかというと、海底トンネルを通るのに海水が上から落ちてきて、機関車に錆びが入るのを防ぐためです。
その他には、交流と直流の切り替えがあるからです。九州は交流の電気が、山口県から東京までは直流の電気が走っているために、その間を走る交直両用の機関車が必要となってるくるのです。
この機関車交代も鉄道ファンにとってはシャッターチャンスで、切り替えの際はたくさんのフラッシュがたかれてました。
そして、交代終了後、門司駅を出発。関門トンネルに入ります。 車窓はもちろん真っ暗です。
関門トンネルを出ると車窓がぱっと明るくなり、下関市街に出ます。当時、下関は漁業の町として栄えてました。
マルハがその代表で、マルハをはじめとするたくさんの漁船が車窓から見ることができました。
下関駅に到着すると、今度は青い機関車(EF66形)が登場。東京まで牽引していきます。そして、機関車交代が終了した後、ゆっくりと下関を出発しました。
出発してしばらくすると、夜も更けて車窓から見る景色も真っ暗になります。建物内の明かりが見れてそれはとても綺麗でした。
そうしているうちにだんだんお腹が空いてきました。あさかぜには食堂車が連結されてました。私は食堂車へ行き夕食をとりました。
確か、ハンバーグステーキ定食を注文したと思います。値段は確か3000円くらいしたとおもいます。値段は高かったですが、車窓から見える夜の景色を眺めながらの夕食は最高の思い出となりました。
夕食を終えて、自分のベッドに戻ると、隣り合わせになった旅行客から声を掛けられました。老夫婦でした。
お互いの自己紹介をして、どこから来たのか?これからどこに行くのか?という会話が始まりました。
昔は今と違って旅先で顔を合わせた人たちがお互いに親しくなることがよくあったように思われます。
寝台列車のいい点のひとつで、長時間他人と一緒にいることで、心が打ち解けて会話が弾むものなのです。
私はその老夫婦と仲良くなり、その後、手紙交換をしたりもしました。
就寝時間になり、ベッドに入り朝までぐっすりと眠るのです。走る列車の規則正しい「カタンコトン」という音も睡眠の邪魔になることはありません。
朝起きたのが、確か午前7時ぐらいだったと思います。しばらく経って静岡に入り、車窓に大きな「富士山」が現れました。
私が人生で最初に見た富士山でした。あまりにも雄大な姿に目を奪われた記憶があります。
朝食は車内販売の弁当を食べ、後は車窓から見える景色をずっと眺めていました。
東京に近づくにつれ、乗客も目的地へ向かうために次々と列車を降りていきました。
私が親しくなった老夫婦も横浜駅で降りることになったので、そこでお別れのあいさつをしました。
その後、私も終着駅に着くまでの荷造りをはじめ、荷造りをしながら車窓から見える都会の景色に目を丸めました。
東京に行くのが初めてでしたので、その都会ぶりが地元の福岡と規模が違ったのに驚いたのです。
東京に入ったのがアナウンスで流れるとともに、東京のシンボル、「東京タワー」が目に入ってきました。
※今では新しく「東京スカイツリー」がシンボルとなってますね。
そうこうしているうちに、目的地の「東京駅」に到着しました。
今でも当時の旅の記憶をはっきり覚えています。現在では飛行機、新幹線であっという間に東京に行けますが、目的地に着くまでの間の時間も人生の貴重な思い出作りになるとおもいます。
私だけでなく、たくさんの人が色んな事情で寝台列車に乗って旅をしたことでしょう。これからの若い世代の人たちにもこういった思い出づくりのため、また人生勉強のためにも寝台列車に乗ってほしいと思います。
なので是非九州の寝台列車(ブルートレイン)を復活してもらいたいと願ってます。
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