今回は、ちょっと哲学的な事を書いてみます。
哲学というと、なんか小難しく、あーだこーだとこねくり回す、観念の遊戯・空理空論だろう?と思うかたも多いかもしれませんが、欧米では、学問の博士号を○○哲学博士(Ph.D【英語では「Doctor of Philosophy」】の略語)と呼び、学問のことを哲学と呼んでいます。
「人間の存在意義」とは、色んな表現ができますが、「人間は、何故に存在しているのだろう?」、「私(私たち)は、何のために生まれてきたのだろう?」、という人間の根本的な問いのひとつではあるのですが、答えがわからないために、ほったらかしにされている問題でもあります。
「生きているんだから、生きているんだよ」とか「お父さんとお母さんが・・・チョメチョメ」とか「そんなわからんことを考えてないで、さっさとやる事をやんなさいよ!」などと思われる方たちがほとんどかもしれませんが、それは正解にはなっていません。
それは、人生の目的もわからずに生きましょうというのと同じであり、人生をフルマラソンに喩えれば、マラソンをやる目的もわからないけど、とりあえず走り続けなさいというのと似ています。
ノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミュ(1913〜1960年)は、こう書いています。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学上の根本問題に答えることなのである。」(『シーシュポスの神話』カミュ、新潮文庫)
また、人生の教師と仰がれたロシアの文豪トルストイ(1828〜1910年)も「人間の存在意義」について深く考えた偉人で、そのことは彼の『懺悔』という作品の中に痛烈に描かれています。
トルストイという人は、非常に頭のよい人で裕福でもあったので、彼が関心を持つ当時知り得るあらゆる知識などを知っていた人でした。
その彼が出した結論が「人生はひっきょう無意義であるという事実が、すべての人の究め得る、確実な、唯一の知識である」(『懺悔』トルストイ、岩波文庫)ということですから、天才がどう考えても、この問題に関する結論は、このようになるのでしょう。
それでよく、人生を悲観的に思ったり、ニヒリスティックに思ったりして、どうのこうの良くない事をする人たちもいるようですが、結論から申しますと、これは間違いであり、真実はその反対です。
天才的とも言ってよいトルストイがなぜこのような結論に至ったかというと、トルストイが生きた当時の時代では、このような難問に関する西洋的な知識は、ほぼ取得できたでしょうが、東洋的な生命哲学を知るすべがなかったからだと私は考えます。
もし、トルストイが東洋の生命哲学を知って理解したならば、「人生はひっきょう無意義である」などと言うことはなく、逆に「人生はひっきょう有意義である」と言ったことでしょう。
『懺悔』に、このような文章があります、「自分にとってこの世で一番重大な事実であるということ、すなわち、それが死であるということを、自覚せざるを得ないのだ。 これと全く同じことが私の身にも起ったのである。・・・」
トルストイの間違えは、簡単に申しますと、死や消滅を全ての終わりとしているところでしょう。
ですが、人間の死が、その人の全ての終わりであるという考えは絶対ではありません。
例えば星々を観てみますと、星々は生成消滅を繰り返します。
星々がいったん消滅したからといって、その星々を構成していたものが全て終わりではなく、生成消滅を繰り返すということが事実です。
星々だけではなく、万物・森羅万象も然りで、生成消滅を繰り返します。
このような事からも、人間が死んだら、それでその人の全てが終わりという考えは、自然現象と一致しない考えなのです。
そのような訳でして、トルストイの間違いを指摘しておきます。
そして、万物・森羅万象が生成消滅を繰り返すという事実のもとでは、前述しましたトルストイの「人生はひっきょう無意義であるという事実が、すべての人の究め得る、確実な、唯一の知識である」という考えは間違えになります。
この「人間の存在意義について」という問題で、現代の日本で有名なかたに諸富祥彦教授がいます。
私も氏の著書をいくつか読みましたが、私が一番わかりやすいと思った本は、『人生に意味はあるか』(講談社現代新書、2005)があります。
この氏の著書には、このような問題に対する専門的な学者という立場で、わかりやすく、かつ熱く冷静に書かれていますので、とても参考になりました。
しかし、このような問題に対する氏の結論が、真実の結論ではない事にも気づきました。
諸富教授のこのような問題に対する答えは、「いのちが、私している」ですが、これで氏が言わんとしていることは???(何か難しい表現をされていますね)・・・ご興味ある方は、ご自身でお調べください。
氏が、そのように表現された理由は、おそらく、氏の学者としての立場からだろうと考えられ、このような問題を理論づけされているようで、氏も当然、学問の限界もご存知でされているようです。
このような「人間の存在意義とは何か?」・「人生に意味はあるか」という問題は、従来の学問では正確には解答できない問題です。
結びに、この問題「人間の存在意義について」の答えですが、簡単に申しますと「幸福になるため」であり、その「幸福とは何か?」と申しますと、世間的な幸せを含めますし、条件に左右されない絶対的な幸せを掴む事と申し上げて、この記事を結びたいと思います。
なぜ、これが「人間の存在意義とは何か?」に対する真実の答えなのかと申しますと、なるべくわかりやすい説明をしてみますと(このようなテーマを、TPOに合わせて表現する事が、かなり難しいのですが…)、人間には、生命力がそなわっていますが、その最高の生命力を引き出して、生きていること自体が嬉しくて嬉しくて仕方ないというような状態になることが人生の目的です。
人間は、そのようになる目的で存在しており、それが人間の存在意義です。
そして人間は、この世(あの世なんて考慮する必要はなく、この現実の宇宙という表現で十分なのですが…)を楽しむために生まれてきました、というのが正解です。
なぜなら・・・と説明したほうがよろしいのでしょうが、この問題の本質が極めて難解であり、論理的説明が不可能で長文になりますので、この辺で終わりにしておきます。
後は、それぞれ、ご自身の人生でご体験くださいませ。
今回は、これにて終わります。