毛利元就の野望 黄金の港町「博多」
NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」(ぐんし かんべえ)で岡田 准一(おかだ じゅんいち)扮する主人公黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)の
敵方として毛利 元就(もうり もとなり)・毛利一族(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・安国寺恵瓊)が登場しています。
播磨国(兵庫県)をめぐって織田信長と毛利一族の激しい攻防が繰り広げられている様子が描かれてます。
しかし実は、毛利元就・毛利一族には播磨の制圧、ましてや全国制覇の夢などまったくなかったようです。
元就自身が有力大名として成功を収めたのは人生の晩年になってからのこと。
中国制覇を成し遂げて、通常なら最後の目標は戦国大名の共通の夢「京に上洛して天下を号令する」ということになるかと思われます。
しかし、毛利元就は自分が既に高齢であったのもありましたが、それ以外の理由として、上洛して中央政権を確立するのではなく、代わりに筑前国(ちくぜんのくに)の「博多」(はかた:福岡県福岡市)を支配下に置きたいということでした。
なせ、上洛ではなく九州の博多だったのか? 諸説はいくつかありますが、既に毛利領をこれ以上拡大する必要はない。
その必要がなかったといわれています。全国制覇など「危険すぎる」、「無謀な行動」と考えていたのではないでしょうか?
毛利領内はとても豊かな資源に恵まれていたのでした。
当時、毛利家は山陰地方に世界有数の「石見銀山」(いわみぎんざん:島根県)を保有し大量の銀を産出してました。
この銀は「ソーマ銀」と呼ばれて世界史上でも非常に有名なものでした。
それだけでなく、これまた全国有数の鉄山(出雲の鉄:島根県)もあり、鉄も沢山とれていました。
銀は貨幣として交易時に使用し、鉄は槍や刀を製造するのに使いました。
特に戦国時代、これらの物資は貴重なものでしたので、これらを生産して全国の戦国大名に輸出して大いに儲かっていたと言われています。
そして、山陽地方では瀬戸内海を支配下に置いており、海上交通の実権も握っていたのでした。
つまり、自国領内だけを守ってさえいれば、十分に戦国時代を生き抜いていける(自給自足出来る)という自信があったのでした。
毛利元就が亡くなる前に家訓として、決して天下を望むようなことがあってはならないと毛利一族に残していました。
当時、京の都を中心に堺などの関西圏は織田信長が支配下に置いていました。といっても、浄土真宗の石山本願寺(現在の大阪城にあたる場所)を中心に反織田勢力が活発に動いていたため、完全に信長の支配下という訳ではなかったようです。
毛利元就(毛利一族)としては、混乱する関西圏にへたに首を突っ込んで自分たちがその混乱に巻き込まれるのを恐れていたようです。
現に室町幕府の最後の将軍「足利 義昭」(あしかが よしあき)が織田信長に反抗したため、京を追われ毛利領に追放されたのですが、この時、足利将軍を錦の御旗に上洛しようと思えは出来たはずです。しかし、そんな意思がまったくなかったのです。
大河ドラマでは吹越 満(ふきこし みつる)扮する「足利義昭」が懸命に打倒織田信長を掲げて頑張っている様子が描かれていましたが、毛利一族は織田信長を倒す気などなかったようです。
一応、石山本願寺の応援として1576年(天正4年)毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を木津川(きづかわ)まで進めはしました。
実際に織田水軍と激しい海戦を繰り広げていました。
しかし、これは織田信長の勢力をこれ以上拡大させないための、ちょっとしたけん制をするぐらいの意味あいだったと思われます。
その一方で、西の九州筑前国の博多はとても魅力的に映っていたようです。
当時の日本において博多の港は、大阪の「堺の港」(さかいのみなと)と並んで国際貿易港として栄えていたのです。
特に博多は、地元の人は当然知っていますが、海ノ中道(うみのなかみち)という自然の防波堤があり、外海(玄界灘)の荒波を防いでいるのです。
この良質な港を持つ博多にはたくさんの船舶が停泊でき、中国・韓国(朝鮮半島)と近いというのもあってアジア貿易が盛んに行われてました。
博多を手に入れれば、貿易の利権が手に入り、莫大な富を手にすることが出来たのです。
博多の町の構造は戦国時代・江戸時代と明治以降では異なっていますが、現在の博多の原形は、天下統一を果たした「豊臣秀吉」の太閤町割り(たいこうまちわり)から来ているといわれています。
当時の博多の範囲は、現在の呉服町(ごふくまち)、奈良屋町(ならやまち)、須崎町(すさきまち)、冷泉町(れいぜんまち)、祇園町(ぎおんまち)あたりが中心だったようでした。
博多のある筑前国は戦国初期〜中期は大内義興(おおうち よしおき)・大内義隆(おおうち よしたか)、後期は大友宗麟(おおとも そうりん)が支配していました。
博多では、神屋 宗湛(かみや そうたん)、島井 宗室(しまい そうしつ)といった豪商たちが活躍していました。
その後、大賀 宗久(おおが そうく)を含めて「博多の三傑」と呼ばれました。彼らは筑前国(博多)を支配する大名と手を組んで、
大きな富を得ていました。同時に大名側も物資調達をしやすくなるので大きなメリットがあったのです。
毛利元就は自分の人生の集大成として一族を挙げて「博多」を最後の目標と決めていたのです。
この時、筑前国(博多)は大友宗麟の支配下にありましたので、「博多」を巡って激しい戦いが展開されていきました。
一時は謀略などが功を奏し、筑前国の拠点である立花山城(たちばなやまじょう)を手に入れ、念願の「博多」を手に入れたかに見えました。
しかし、すぐに大友側の反撃にあい、1569年(永禄12年5月18日)、多々良川合戦(たたらがわのかっせん)で大友軍に敗れ、その後やむなく撤退しました。
結局、元就は悲願の「博多」支配を達成することは出来ませんでしたが、後に豊臣秀吉が天下統一を果たした時、元就の三男である小早川隆景(こばやかわ たかかげ)が秀吉から博多を含む筑前国を与えられ、元就の悲願は一応ここで達成される事となりました。小早川 隆景の死後、関ヶ原の合戦を経て江戸時代は、黒田官兵衛の息子である黒田 長政(くろだ ながまさ)が新たに筑前国の領主(福岡藩主)となり幕末に至っています。
博多(福岡市)は昔から現代に至るまでアジア貿易の拠点として華々しい歴史を飾ってきました。その反面、その「富と栄光」を狙って様々な権力闘争が繰り広げられ幾度となく荒廃しましたが、その度に力強く立ち直り今日の発展に繋がっているのだと思われます。
黄金の港町、博多(福岡市)は発展を続ける中国や韓国との関係も深く九州の玄関口として、またアジアの玄関口としてこれからも重要な役割を担っていくことでしょう。